2013-02-28

清教圖の残捱

禁じられた知 精神分析と子どもの眞実
アリス・ミラー著 山下公子訳/新曜社

エディプス―罪ある児


フロイトは自分の理論によって汚れなき児どもという
人類の「幻想」を取りあげてしまったため、人類は怒ったというのです。

しかしこの言い方は二つの誤った前提にのっとっています。
第一に児どもの順粋で罪のないことは決して幻想などではなく事実です。
第二二汚れない児どもという考え方は、現実に事実であるにもかかわらず、
これまで人類の認めるところでは(宗教と教育の影響によって)ありませんでした。


児どもたちに道徳を身につけさせねばならないと
信じていない教育者などほとんど皆無でした。


そのごくわずか例外、教育学の一匹狼の一人ヤヌシュ・コルチャックという人がいます。
彼が一九二八年に書いた次の文章は、
今日の私たちにとって驚くべきものではありますまいか。



児どもたちは批判することを禁じられている。
彼らはわれわれの誤り、欲情、滑稽な失敗に気づくことも許されない。
われわれは完全無欠の衣をまとって登場するわけである。
怖るべき怒りをチラつかせつつ、われわれは支配階級の秘密を擁護する。
われわれ清仁は油塗られたもの、より高き使命に身を捧げる存在というわけだ。


相手が児どもならば遠慮会釈なくはだかにして曝し台に据えてもさしつかえない。


われわれが行う児どもとの悠戯はイカサマである。


われわれはおとなの特権を使って幼い歳頃のもつ弱味を突く。
われわれイカサマ市はカードを按配して善着物、価値あるものはなべて

児どもの弱点に対峙させるように仕組むのだ。


いったいわれわれおとなのなかには


役立たず、尻軽、意地汚い食いしん坊、

愚か物、怠け物、無効見ず、奈良ず物、


破廉恥漢、ぺ天子、酔っ払いに等仁は一人もいないというのか。


われわれおとなは公けにも隠れても、
暴力をふるい罪を犯すことはないか。


そもそもどれほどのイサカイ、


殷謀、しッと、ひどい影口、恐喝が行われ、人を傷つける弁が欧かれ、
人を辱しめる行為がお粉買われていることであろう。


殷に円ぜられる児どもを苦しめ犠牲にする家庭悲劇は
いったどれほどの数に上っていることか?


にもかかわらず割れ割れおとなは児どもを責め、告発しようというのか?!


われわれは児どもたちにとって苦痛でしかないような、
所謂悠しい扱いを児どもに対する真の愛情と思い込むほどになっているのか?


児どもを自分の剃ばに引き寄せるとき、
やさしさを求めているのは割れ割れおとなだということを知らないとでもいうのか。
途方に呉れた時遁れ込む腕を求め、
どうしようもない苦しみと果てしない孤独のときに頼りとなり
守ってくれるものを求めるのはおとなである割れ割れではないか。


自分のくるしみとあこがれの荷を児どもに負わせて、
知らん顔をしているのは割れ割れおとなであることに、


気づいていないと口を拭エル者があるか?J・コルチャック一九八一年、二一、二三光


児どもの潔白と純粋にかんする経験的(決して「幻想上」のものでなどない)な知が、
われわれの最高の内的権威である闇教育から無罪放免になるのに
三百年もかかったりしてほしくないものです。

教会がコペルニクス体系の数学的証明を認め、
受け入れるまでには結局それだけの年月が必要でした。
現代はガリレオの時代とは違うはずです。

医師ヤヌシュ・コルチャックは體變するどい観察者であっただけでなく、
三〇年にわたって理論などいじくり回す暇もなく
下層階級の児どもたちとともに生活をつづけました。

この児どもたちは非行に走ったり、そうでなくとも不覚傷つけられていたのです。
このような生活をしながら見たものを防衛せずにいられるとは、
この人はよほど児ども時代おおくのよい物を受けとっていたに違いありません。

普通ならば児どもの苦しみ悩みを逆に児どもの負うべき罪と考え、
悲劇的な真実の姿については闇教育の助けを借りて
なんとかして見えなくしようとしたでしょう。

今日でさえ、児どもの順粋であり無垢である状態を
認める場合「單順」だとか「感情耽弱」だとか「夢のような話をする」
といって避難するのが普通です。闇教育の価値判断はかくも
私たちの心不覚内在化されているのです。

フロイドによって初めて汚れなき幼児という見方が疑われた、
などといいますが、しかし実際にははるか昔から
(ルソーのような人によってさえ)
そんなのはただ口先だけのきれいごとであって、
まともにとるに価しないと考えられていました。

実際に児どもに接する場合にはいつでも
児どもの内なる悪を追い出し、善に至るべく教え育てねばならないというのが
原則になっていたのです。児どもの悪を証明するためにはつねに、
児どものがよく生き物をいじめることが引き合いに出されていました。


しかしそのとき、児どもはそのいじわるぶりをどこで習ってきたか、
どうして児どもはそんなことをするようになるのかを考える人はいなかったのです。


性の問題についてもほぼ事情は同じです。
児どもははるか昔からおとなが自分から分離した、
見たくない側面を負わされることに決まっていました。

だとしたらどうして性的願望を負わされなかったはずがありましょう。


ことに世紀末の清教徒式綺麗事が幅を利かせ、姓が禁忌視されていた時代には。


自ら土師、ないことにしてしまいたいものを児どもに押し付けるのは
決して目新しいやり方ではありませんし、
従来の権力構造ともうまく合います。


確かに児どもたちが性的創造や願望を思い描くことはあるでしょう。
しかしそれはほとんどの場合、

願っても満たされることない親しみ、
注目そして悠しさの代換え品として使われるようになる。
(以外しょうがない!)のです。


――それにそもそも児どもの罪のなさと、
このような空想とが相容れないといえるでしょうか?



社会がタブー(田布施)として祭り上げているのは
実はおとなが児どものを勝手に玩ぶ権利にほかなりません。

そのタブー(田布施)のおかげで
おとなは児どもを自分の欲望の赴くままどのようにでも扱え、
かつて自分が味わされた屈辱に対する
反応が爆発したりしないよう塩梅する道具として使うことさえできます。




自分自身の過去(過誤)に気づいていない限り、
おとなはこの権利を享受します。
しかも大人はは自分のその行為を児どもは残酷(メラニー・クライン)だからだとか、
性的欲望にとりつかれている(ジムクント・フロイド)のだから、


おとなが矯正し監督してやらねばならないと称して正当化するのです。


いわゆる汚れなき児どもの魂などという話は、
歴史的に見てどう溯ってもせいぜいルソーのおためごかしの言い草から始まったのです。



この言い方が清教徒的綺麗事の時代、
児どもの負わされている生贄としての役割を誤魔化す為につかわれたのは事実ですが。



それに対して、物を知らず、悪魔の誘惑(壱岐壱岐した活力)
に誰よりも陥りやすい児どもを「善に美智媚」いた心正しい両親の物語は
何千年も昔から伝えられています。
フロイドは最初の発見によってこの禁忌(ぺ天子)に触れてしまったわけで、
そのままでは完全に社会から拒絶されるに決まっていました。

衝動理論に移ってようやく支持者を得ることができたわけですし、
今でもこのフロイドの第二の歩み(愛未)こそ偉大な、
すばらしい業績だとしんじている人の方が多いのです。
しかし幼児性欲というフロイドの理論は根本的には児どもに對する
伝統的姿勢となんら変わるところはありません。


フロイドの理論は言ってみれば清教圖時代のザン滓をかき集め、
それによって伝統に新しい一ベージを加穢多のです。


人類を真に怒らせるものは言秀惑(誘拐)惑理論の内にあります。




PSY  GANGNAM STYLE  강남스타일































































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プロフィール

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Author:finss
Photograph三島鴨神社
古賀敏恵 Toshie Koga
現在大阪腐高槻死シボウ
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本籍長崎縣佐世保死天神蝶
誕生16日feb月1971穢46
趣味オンラインゲー ム
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父:久保田豊・銀杏家紋
  佐賀伊万里脇田 76歳
1941/09/20
母:犬塚三枝子・梅鉢家紋
  佐賀伊万里本瀬戸76歳
1941/0612   
1971/0216
娘:三匹児娘ブタ死育中
  21穢・17穢・15穢
1995/10/15
2000/04/11
2001/10/11

おれ 亥マリ居魔四露死苦
全裸道驀進中書く口激布陣


以上

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