2012-07-29

教育の掟と戒律

禁じられた知 精神分析と子どもの真実
アリス・ミラー著 山下公子訳/新曜社


別離の痛みと自律性


 教育の掟「汝気づくなかれ」は、つまりモーセの十戒のはるか以前から存在していました。われわれの文化圏ではこの掟は世のはじめと一緒にできたわけです。そうである以上私たちが天国と称する場所を失うまいために、喜んで盲になり、疎外され、人から好き勝手に利用され、欺かれ、屈服し、自己を失ってしまうという地獄をわが身に引き受けるのに何の不思議がありましょう。天国と称している場所は、人間に安全を与える代価として、かくも多くを求めるのです。


 聖書の伝承では天国からの追放をもって人類の苦難の歴史が始まったことになっています。しかし、この想像上の苦しみの起源はもう少し古いのではないでしょうか? 今の私たちはかの天国、矛盾があってもそれを問い糺すことなく受け取らねばならない、つまり人間はいつまでも赤ん坊の状態でいなければならないことになっていた天国をうらやましいところだと思うでしょうか? 私たちは例外なく子どものころに、自分の両親が矛盾したことを言ったりしたりしてもそれに気づかぬよう学習しています。ですから後になってもその類のことにはほとんど気がつかないのが普通です。もしそういうことに気づく人がいたとしますと、その人は哲学ないし神学体系のなかにその矛盾を封じこめようとするでしょう。失われし天国の物語は、自分の存在もその初源の状態では苦しみを知らぬものだったことを願っている人間の憧憬をあおります。ただしそこにも消すことのできない経験がついて回っています。無意識の外に出てはきませんが。この天国には自己放棄という代価を支払わなければ入れないわけですから。


 私たちの本当の父親のことを考えるなら、その人たちが強そうに、偉そうにする人であればあるほど、子どものころには逆により不安に苛まれていたのだといえるでしょう。しかしそんな性質の神を恐れて崇拝しているというのは、まさに闇教育の結果といってよいのではないでしょうか。もし本当に愛する神がいるのだとすれば、その神が私たちに犠牲を強いるとは思えません。そのような神は私たちのありのままの私たちとして愛し、私たちに服従を無理強いすることなく、批判されたからといってうろたえたりせず、私たちを地獄に落とすといって脅したり、こわがらせたりはしないはずです。私たちの誠意を試すようなことをしたり、私たちを疑ったりせず、私たちが感情や衝動に生きることを妨げたりもしないでしょう。




私たちが真の意味で力強く愛することを学ぶためには、
感情と衝動の世界が土台として不可欠であることを神はわかっているでしょうから。





愛とはつまり義務を果たしたり服従したりなどということとはまったく逆のありようなので、ただひたすら愛されている状態を経験することからのみ育ちうるのです。


 
 
子どもを教育によって愛するようにすることなど不可能です。殴ってみても、善意をこめた言葉を尽くしても同じことです。訓戒を垂れてみても、説教してみても、説明しても、お手本を示してみても、脅かしても、犠牲を払わせても、子どもが人を愛せるようになったりはしません。


説教を聞かされる子は説教することしか学ばないし、殴られる子は殴ることを学ぶのです。ある人間を教育して善良な市民、勇敢な兵士、誠実なユダヤ教徒、カトリック信者、新教徒、無神論者、そればかりか誠実な精神分析家にすることはできるでしょう。
けれどもいきいきとした自由な人間にすることは不可能です。



ところが真の意味で愛することができるようになるためには
このいきいきした生気と自由こそが必要なのであって
教育上の押しつけは何の役にも立ちません。


 イエススという人物がその全生涯中に言ったこと、なかんずく行ったことを見れば、この人の父は「その御旨が行われ」なければならぬ(神である)父、求めること多く、掟にこだわり、犠牲を求める、はるかかなたにいて、目に見ることもできぬ、不動の存在である父だけであったはずのないことが明らかです。幼いイエススは全く別のもう一人の父、つまりヨセフを知っていたのでした。ヨセフは決して表にでようとしたことがなく、マリアとその子を守り、愛し、子どもの成長を助け促し、その子を中心に据え、その子に仕えたのです。この子に真実とは何かを判断するための基準と愛の体験を与えたのは間違いなくこのつつましいヨセフであったに違いありません。だからこそイエススは同時代の人々の偽りを見透かすことができたのです。それまで通りの原則に従って教育され、それ以外の何一つ知らない子どもには偽りを見通すことなどできません。比較することがそもそも無理なのですから。一つの決まった雰囲気だけを子どものときから呼吸して育った人間は、どこに行ってもそれをまったくあたり前のことだとしか感じません。もしかしたらそのために苦しむことはあるでしょう。しかしその原因である雰囲気全体の輪郭をはっきり摑むことはできません。ですから子ども時代愛を経験しなかった人間は、それに憧れるようにはなっても、愛が実はなんであるかをしることはできません。しかし、イエススはそれを知っていました。


 教会がもしも、当局に対する服従を要求し、その見地からキリストの倣びを求めるのではなく、ヨセフの生き方のもっている決定的な意味を認識していたとしたら、間違いなくもっとたくさんの人が人を愛せる人間になっていたはずです。
ヨセフはその子を神の子であると信じて、子に仕えたのです。



私たちが皆自分の子どもを神の子だと考えたらどうでしょう。
それは決して不可能なことではないはずです。





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教会に属しているか世俗の人であるかを問わず、教育者が子どもに既存の理想を伝えようとすると必ず闇教育のやり方に陥ります。その結果子どもたちはせいぜい教育好きのおとなに教育されるくらいで、とても人を愛する人間にはなれないのです。





 尊敬されていた子どもは尊敬を学びます。仕えられていた子どもは仕えること、より弱いものに仕えることを学びます。ありのままを愛されていた子は寛容を学ぶのです。このような基盤の上に子どもたち自身の理想が育つわけですが、この理想は人間愛に満ちたもの以外にはなりえません。そもそも愛の体験から生まれてきたものですから。


 私は一度ならずこんなことを言われました。あなたのおっしゃるように小さいころ自分の真の自己を発展させることができた人は、われわれの社会の規範に適応してしまうことを拒むであろうから、結局一種の殉教者の苦しみを負わせられることになるのではないか、と。これはしばしば教育の必要性を論ずるために使われる議論ですし、確かに当たっているところもないわけではありません。こういう両親たちはつまり、自分の子を出来る限り早く適応可能な状態にしてやり、あとで学校に入ったり仕事をするようになったときあまり苦しい思いをせずにすむよう準備してやっているというのです。子ども時代の苦しみとそれが性格形成にどれほどの影響を及ぼすかがわずかしかわかっていなかったため、この議論にはそれなりの説得力がありました。歴史を見てもこの意見が正しいことは証明されているように思えなくもありません。その当時の社会で優勢であった規範を認めず、真実、つまり自分自身に忠実であった人々は多くの場合殉教者としての死を選ばされる結果になっています。しかしそれでは、





社会の規範が遵守されることに固執し、自分たちと違う考えの人間を迫害し、十字架に懸けようとするのはいったい誰でしょう――



それこそ「正しい」教育を受けた人間ではないでしょうか?




 ヘロデ王をいわゆる社会の象徴と考え、今の私たちの時代に移してみましょう。そのときイエススの物語には(各々がどのような経験をしてきているかによって)教育に与する要素と
教育を否む要素の双方が含まれていることがわかります。一方には嬰児殺しとは社会の規範が、もう一方には常軌を逸した、自分の子に仕える両親があるのです。教育学者の信ずるところによれば、そんな両親に育てられた子はどうしようもない暴君になるはずでした。ヘロデという人に体現されているいわゆる社会は、子どもたちの生命力と真実を恐れるあまり子どもを殺してしまおうとします。けれども、一旦生きられた真実は決して抹殺できません。どれほど国家ならびに教会の社会的権威がそれを排除するために真実の管理を「画策」してもだめなのです。真実は繰り返し立ち現れ、決して押し潰されてしまうことなく、一人一人の人間の生によって生きられ、改めて証しされていきます。一箇の社会制度となった教会はたびたびこの真実が社会の表面に現れてくることを防げようとしてきました。教会はたとえばキリストの名によって戦争を起こし、さらには神聖なる教育の価の名において(従順、自己奉献、自己犠牲など)子どもの魂(そして感情)を圧殺してしまうよう両親に勧告したのです。その教育のためには厳しい懲罰も辞さぬようにというのが教会のいい分でした(たとえばM・メーア、一九八一年参照)。



 かくして教会は神の思召しに従うと称して日夜生命力にあふれる子どもとの戦いを続けています。子どもは従順になるよう教育され、偉い人には無条件で服従するよう求められ、自分が悪いのだと思うように仕向けられるのです。しかし、この教会のやり方は、イエススが身をもって生き、示した人間の可能性に対する信頼ではなく、むしろヘロデのやり方(子どもの内にある真実が顕現することを恐れ退ける)に従っているといえましょう。このような教育を受けた乳幼児の心のなかにはそれに対する反応として憎しみが芽生えますが、この憎しみは子どもの成長とともに計り知れないほど大きくふくらんでしまいます。




教会はこうして世の悪と戦っているつもりで実は(一部無意識で)
世に悪が拡がりはびこるのを助けています。



 

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フィリピン人無名作家の絵








Beethoven - Moonlight Sonata (FULL) - Piano Sonata No. 14
http://www.youtube.com/watch?v=4Tr0otuiQuU&feature=autoplay&list=PL4BE91168083D9849&playnext=8&shuffle=800078

Brenda Lee - The End of The World
http://www.youtube.com/watch?v=qvYXwHXF7to&feature=related









ノルウェー容疑者の父、「息子は自殺すべきだった」 爆破・銃乱射事件
2011年07月26日 17:06 発信地:オスロ/ノルウェー
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2816194/7555189
イエンスさんとブレイビク容疑者の母親は、同容疑者が1歳のときに離婚した。息子と15年間、連絡をとったことがないというイエンスさんは「今後、二度と息子と会うつもりはない」と言い切った。実の子どもに対するものとしては厳しい言葉であることを認めたうえで、イエンスさんは「息子は過激主義者になってしまったようだ。精神を病んでいるにちがいない」と語った。



37歳の男性と結婚した9歳の女の子…アラブ首長国連邦
9-Year-Old Girl Bride In Her Wedding Day (To 37-Year-Old Man)
http://www.liveleak.com/view?i=5cd_1343334652


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九歳の花嫁





29日18時22分頃地震がありました。
震源地は日本海北部 ( 北緯47.1度、東経139.4度)で震源の
深さは約540km、地震の規模(マグニチュード)は5.7と推定されます。

北海道  震度1  猿払村浅茅野  浦河町潮見 十勝大樹町生花
青森県  震度1  階上町道仏  東通村小田野沢
岩手県  震度1  盛岡市玉山区薮川
宮城県  震度1  栗原市金成













































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プロフィール

finss

Author:finss
Photograph三島鴨神社
古賀敏恵 Toshie Koga
現在大阪腐高槻死シボウ
出身佐賀縣伊魔里死本瀬戸
本籍長崎縣佐世保死天神蝶
誕生16日feb月1971穢46
趣味オンラインゲー ム
  腐女婆・婆喰イ 仁
  マザコン男漁り痴女
職業ニートひき籠 もり
  中毒婆自称文学屋

得意竿口淫:肛門舐:殷手帽

日本仁様ら布陣寄せパンダ
見世物磔砕絶賛殷賣中ぢゃ

豚賊ゴキブリ組   
父:久保田豊・銀杏家紋
  佐賀伊万里脇田 76歳
1941/09/20
母:犬塚三枝子・梅鉢家紋
  佐賀伊万里本瀬戸76歳
1941/0612   
1971/0216
娘:三匹児娘ブタ死育中
  21穢・17穢・15穢
1995/10/15
2000/04/11
2001/10/11

おれ 亥マリ居魔四露死苦
全裸道驀進中書く口激布陣


以上

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