2011-12-15

巣鴨プリズン

A級戦犯岸信介の犯罪:東条英機、甘粕機関、関東軍と満州の阿片の闇()
http://www.asyura2.com/10/senkyo80/msg/498.html
投稿者 会員番号4153番 日時 2010 年 2 月 14 日 19:39:26: 8rnauVNerwl2s

内閣誕生のわずか5年前、2.26事件勃発時には、満州の憲兵隊司令官にすぎなかった男が、なぜ戦時の絶大な権力を手に入れるに至ったのか。

3.史実を追うことの難しさ
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/6218/cane1.html
それまで裁判の答弁で「陛下のために戦った」ことを強調していた東条(津川)が、「陛下に関係ない、自分一人で(太平洋戦争を)やったことだ、と言って欲しい」と求められ、憤死寸前の叫び声を挙げるシーンがあります(これは史実、天皇の密使が、「陛下の御意志には逆らえません」と答弁で言いきった東条に「自分一人で始めたこと」と言えと求めたらしい)。実際戦争終結前からアメリカの国務省内では天皇制温存の方向が決められていたので、東条の言葉は天皇の戦争責任の存在を示すことになるので、まずかった、ということもあるのでしょうか。


愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20061116/senka

近衛文麿 - Wikipedia

1945年(昭和20年)2月14日に、近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上した。そこでは、(1)「大東亜戦争」は日本の共産化を目的として行われて来たこと、(2)「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞であること、(3)一部の陸軍将校たちがソ連軍導入による日本の共産化を目指していること、の三点が述べられ、共産主義革命の実現に対する強い懸念が表明されている。御下問において、軍部にはソ連との提携を図る者もいるが、アメリカとの講和以外に途は無いこと、軍部を抑えることで和平に導くべきであるということを主張した。尚、昭和天皇は、「敗戦必至」という奏上文に対して、「もう一度戦果を上げてから」として終戦の要求を蹴っている。これが、東京大空襲から長崎原爆投下までの空襲に至り、「遅過ぎた聖断」の動機になったと考えられる。


要するに、昭和天皇の「もう一度戦果を挙げてからでないと」という言葉は、
1・軍の人事に関する話だった

「秩父宮」という昭和天皇の弟、および軍内部の「皇道派」「統制派」による思想・派閥争いです。


巧妙に論点をすり替え、裕仁の発言はそういう意図ではなかったと詭弁を弄したいようですが、


2011年06月14日
鬼塚英昭氏の説く原発マフィアとは(1)
http://kokoroniseiun.seesaa.net/archives/201106-5.html
鬼塚氏は『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』のなかで、昭和天皇についてのある重大なエピソードをしたためている。

鬼塚氏は一連の著作で、端的に言えば、大戦末期にアメリカから天皇に極秘で原爆投下の通知が来ていたことを豊富な資料で見事に立証したのである。アメリカからの通達(命令)を天皇に伝える役を担っていたのが、吉田茂や原田熊雄ら「ヨハンセン・グループ」だった。彼らはフリーメソンであり、「御前会議」の内容と決定を細大漏らさずアメリカ側に通報していた。

 アメリカは何でも知っていたのだ。日本がとっくに戦争遂行能力を失い、和平工作を始めたことも知りながら、昭和20年8月まで、つまり原爆が完成するまで、戦争を引き延ばし、日本の未来ある青年の虐殺を続けた。また、空襲で非戦闘員の庶民を殺戮した。

 アメリカは原爆投下を「ヨハンセン・グループ」を通じてあらかじめ天皇に伝え、どこに投下するかを指定せよと言ってきたのである。天皇の返事を待って、アメリカは原爆を指定の日に、指定の都市に投下した。そのことが鬼塚英昭氏のこれまでの著作に明らかにされている。

 さらに『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』から引用させていただく。
 広島の原爆被曝者(高橋広子さんという一杯飲み屋のおかみさん)の発言が紹介されている。話は昭和天皇の広島巡幸の場面だ。


 <B>
 あの人(昭和天皇)は、帝王学かなんかしらんが、自分の意思をいわん人やと聞いた。あの人に罪はない、原爆病院行くかわりに、自動車会社へ行かせた県や宮内庁の役人が悪いという人もいる。それならば、なぜ、戦争をやめさせたのはあの人の意思やという“歴史”があるのですか。
 「神やない、おれは人間や」というたのですか。美談だけが残って、なぜ責任は消えるのですか。
 うちゃあ情けのうて、へも候や。


嶋田繁太郎 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E7%94%B0%E7%B9%81%E5%A4%AA%E9%83%8E
1941年9月横須賀鎮守府司令長官。同年10月東條内閣にて海軍大臣(在任:1941年10月18日 - 1944年7月17日)。打診された当初は「任にあらず」と辞退したが、寵愛を受けていた伏見宮の勧告もあって、拒否しきれなかったといわれている。就任直後は不戦を主張していたが、強烈な対米不信感と伏見宮からの圧力(「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」という言葉)、そして物資への関心から、開戦を避ける事は不可能と判断し、10月30日に海軍省の幹部たちを呼んで「この際戦争の決意をなす」「海相一人が戦争に反対した為戦機を失しては申し訳ない」と述べ、鉄30万tで対米開戦に同意した。機密戦争日記には「海軍の決意は鉄30万tの代償なり、哀れむべき海軍の姿かな」と記されている。

○昭和天皇の人事介入
http://www.han.org/a/half-moon/hm053.html#No.347
天皇はまた1940年9月、日独伊三国軍事同盟の締結を前にして、閑院
宮の陸軍参謀総長、伏見宮の海軍軍令部長をやめさせるよう、天皇のほうから
積極的に発議した。木戸内大臣の日記9月17日の条にいわく。
 「10時出勤、武官長(侍従武官長)来室。陛下より両総長御勇退、元帥府
確立につき思召を拝したる由にて、相談あり」。
  9月19日、「10時10分、思召により拝謁、総長宮更迭につき、聖慮
を承る。11時すぎ退出す」。
  どうして天皇はこのように発議したのか。これについて木戸は、19日の
日記に次のように書いている。
 「かねて愈々(いよいよ)重大なる決意をなすときとなりたるを以て、此際、
両総長宮の更迭を願いて、元帥府を確立するとともに、臣下より両総長を命ず
ることとしたしとの思召(天皇の意向)あり、武官長に御下命あり、余にも相
談すべき旨御沙汰あり」。
  天皇は“重大なる決意”すなわち独・伊と軍事同盟を結んで米英に対抗す
る決意--それは米英との戦争にいたることをかくごせねばならない--をか
ためるとともに、万一戦争になったとき、皇族が陸海軍統帥機関の長であるこ
とを望まず、臣下に代えたかったのである。
  戦時(あるいは戦争準備期)の参謀総長、軍令部総長の責任は至重至大で
ある。天皇は第一にその責任を皇族に負わせたくなかっただろうし、第二には、
場合によっては皇族-->皇室-->天皇へと責任がおよぶことを警戒したの
であろう。
  陸軍は閑院宮の参謀総長をやめることにただちに同調し、10月3日、閑
院宮は辞職し、後には杉山元が総長になった。海軍はいますぐ伏見宮がやめる
のは絶対に困るとのことで、翌1941年4月、伏見宮は辞職し、永野修身大
将が後をついだ。


戦争当時の裕仁は神様で、どんな人間も逆らうことなどできるはずもなく、戦時軍隊において皇族が人事権を完全に掌握しており、太平洋戦争直前に日本が敗戦するシナリオを予め知っていた裕仁は、閑院宮の陸軍参謀総長、伏見宮の海軍軍令部長をやめさせるよう積極的に発議し、やめさせ戦後戦犯に問われることなく責任逃れさせている。


伏見宮が海軍を先鋭化・右傾化させて戦争を推し進めた張本人であった。




GET WILD / TM Network
http://www.youtube.com/watch?v=31VtgwESFBs&feature=related









































スポンサーサイト
プロフィール

finss

Author:finss
Photograph三島鴨神社
古賀敏恵 Toshie Koga
現在大阪腐高槻死シボウ
出身佐賀縣伊魔里死本瀬戸
本籍長崎縣佐世保死天神蝶
誕生16日feb月1971穢43
趣味オンラインゲー ム
  腐女婆・婆喰イ 仁
  マザコン男漁り痴女
職業ニートひき籠 もり
  中毒婆自称文学屋

得意竿口淫:肛門舐:殷手帽

日本仁様ら布陣寄せパンダ
見世物磔砕絶賛殷賣中ぢゃ

豚賊ゴキブリ組   
父:久保田豊・銀杏家紋
  佐賀伊万里脇田 73歳
母:犬塚三枝子・梅鉢家紋
  佐賀伊万里本瀬戸73歳   

娘:三匹児娘ブタ死育中
  十九穢・14穢・13穢

おれ 亥マリ居魔四露死苦
全裸道驀進中書く口激布陣


以上

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード